弘法大師 空海について
CREATED: 2026 / 08 / 14 Fri
UPDATED: 2026 / 08 / 14 Fri

空海の肖像。右手に金剛杵、左手に念珠を持つ。
空海の略歴
空海は宝亀5年(西暦774年)に讃岐で生まれ、その名を佐伯真魚(さえきのまお)と言いました。
彼は18歳の時、上京して官吏の養成機関に入るのですが(母方の叔父の伝手で入れたという話があるようです)、これを翌年に辞めます。
昔の人の教えなど搾りかす(糟粕)の様なもので、こんなものを表面的に学ぶことに益などないという様な感じで大学を飛び出し、私度僧という形で山林修行を始めます。
我の習うところは古人の糟粕なり。目前に尚も益なし、況や身斃るるの後をや。この陰已に朽ちなん。真を仰がんには如かず。
真済『空海僧都伝』
彼が山林修行の中で具体的に何をやっていたかは定かではありませんが、どうやら虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という究極の知恵を得るための修行を行なっていた様です。
その後24歳になって著作『聾瞽指帰(ろうこしいき)』で儒教を批判し、これをのちに改訂して『三教指帰(さんごうしいき)』を完成させました。
『三教指帰』は珍しく架空の人物が対話する形式で描かれており、プラトンの『饗宴』やオスカー・ワイルドの『芸術家としての批評家』などを思い出しますが、8世紀の日本でもこの様な表現方法が用いられていたことに驚かされます。
佐伯真魚は31歳の頃(延暦23年、西暦804年)、出家して空海と名乗るようになります。
釈迦の生き方を真似たのかとか唐に渡るためだったとか、出家の理由が色々と推測されているらしいです。
同じ年に彼は留学僧として唐に入ります。この時の唐への船団には最澄も乗っていました。
空海は自費で留学を行なっていましたが、最澄は国のお金で唐へ渡りました。最澄はそういう意味で相当なエリートだったようです。
また、空海と嵯峨天皇に並んで三筆と呼ばれている橘逸勢(たちばなのはやなり)も、この時空海最澄と共に唐へ渡りました。
空海は唐の都である長安の青龍寺で恵果(けいか)という僧に師事します。
そして、ここで両部密教(胎蔵界・金剛界=密教における世界観)の伝法灌頂(密教の教えを継承し、阿闍梨の位を得る)を受けます。
空海は恵果から遍照金剛という灌頂名を授けられます。
伝法灌頂の後、恵果は亡くなってしまい、空海も経済的に困難になったため、彼は唐から帰国します。
しかし、簡単に唐から帰国できたわけではありません。
彼は非常に運が良く、ちょうど日本へ帰る船があったために帰ることができただけで、このタイミングが悪ければ30年以上日本へ帰ることができませんでした。
何はともあれ、806年(大同元年)に唐より帰国して太宰府に滞在したのち、809年(大同4年)帰京を許可され、空海は『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』(いわゆる報告書)をまとめ、これを当時の朝廷に提出します。
空海、闕期の罪視して余りありといえどもひそかに喜ぶ。得難きの法を生きて請来せることを
『御請来目録』
こうして空海は日本に初めて体系的な密教を持ち込んだわけです(密教自体はそれ以前も日本に入ってきていました)。
その後彼は高雄山寺(現在は京都市右京区梅ケ畑高雄町にある神護寺)に住持(住持職となる)し、最澄とも交流するようになります。
以降の略歴は以下のとおりです。
816年(弘仁7年)嵯峨天皇が空海に高野山を勅賜しました。空海は高野山に修禅の道場を建立します。
821年(弘仁12年)、空海は香川県まんのう町にある日本最大級のため池である満濃池を東で学んだ土木技術を駆使して修築しました。
823年(弘仁14年)嵯峨天皇が空海に東寺を勅賜しました。
828年(天長5年)空海は日本初の庶民教育機関である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設置しました。
834年(承和元年)空海が奏上した後七日御修法(ごしちにちみしほ)の勅許が下りました。
そして、835年(承和2年)、空海は高野山で入定(死ぬ)します。
しかし、空海はその後も生き続けているという伝説が残り、これが空海の入定信仰として引き継がれていきます。
1023年(治安3年)、藤原道長は以下の歌を詠んでいます。
有りがたや、高野の山の岩蔭に大師はいまだ在(おわ)しますなる
藤原道長
921年(延喜21年)、醍醐天皇は空海に弘法大師を諡号(しごう)します。
そして、この後、全国に弘法大師信仰が広まっていきます。
後七日御修法(ごしちにちみしほ)
ちなみに、後七日御修法は現代でも行われています。
その内容は普段明らかにされていませんが、東京国立博物館で2026年7月14日から9月6日まで催されている「空海と真言の名宝」ではその映像が公開されていました。
後七日御修法は、御衣を加持し玉体安穏や五穀豊穣を祈る修法です。
大阿闍梨(だいあじゃり)という最高責任者を中心に執り行われます。
毎年、正月元日から7日まで神事を行った後、京都の東寺にて8日から14日まで行うことになっています。
を仕舞い
「空海と真言の名宝」(東京国立博物館、2026年7月14日~9月6日)に展示されている快慶作の執金剛神立像と深沙大将立像の迫力は凄まじかったです。
ガイコツの目が光って見える!? 特別展「空海と真言の名宝」で話題の仏像について担当研究員に聞きました
残り時間は少ないですが、ぜひ興味があれば行ってみてください。
そういえば、現在トーハクがある場所は関東の天台宗総本山である東叡山寛永寺の敷地があった場所らしいですね。
寛永寺は2代将軍徳川秀忠の代に江戸城の鬼門となる土地に建てられた様です。
寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。
参考資料「寛永寺について」を参照
つまり、そんな天台宗の土地で真言宗の空海の展覧会をやっているということです。
平安時代には真言と天台で対立していたことを思うと、ちょっと面白い話ですね。